WRC2021/06/18

2.4万kmのレッキを敢行、日本初のサファリ勝者

(c)wrc.com/WRC promoter

(c)Toyota

(c)Yoshio Fujimoto

 19年ぶりに世界ラリー選手権に帰ってくるサファリ・ラリー。かつてのサファリ・ラリーがいかに勝つことが難しく、厳しいラリーであったのかを、いまの世界ラリー選手権のイベントにおきかえて説明することはとても困難だ。しかし、1995年に開催されたサファリ・ラリーで日本人初、かつ唯一の優勝者となり、歴史に名を残した藤本吉郎の言葉はリアルな重みをもって響いてくる。彼によれば、およそ5カ月間にわたってケニアに滞在して、本番車と同じグループAマシンで2万4000kmにわたってレッキを行って準備をしたという!

 この年のサファリ・ラリーは2輪駆動マシンのためのワールドタイトルしか掛かってはいなかったが、トヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)から出場した藤本はトヨタ・セリカGT-FOUR ST185を操り、3日目には横転したにもかかわらず、40分以上もの大差をつけて勝利した。

 そのセリカGT-FOURが、サファリ・ラリーの復活を前に、25年の歳月を経てフルレストアされた。WRC公式サイトのwrc.comは、藤本にセリカとサファリ・ラリー・ケニアへの思いを聞いている。

―ヨシオ、サスペンションメーカーのテインの役員でもあるご自身のことや、1990年代のドライバーとしてのキャリアについてお聞かせください。

「テインは1985年に誕生しました。私がドライバーで、ビジネスパートナーがコドライバーでした。当時、私たちは日本で多くのラリーに参加していたが、良いサスペンションが見つからなかった。そこで、自分たちでサスペンションを作ってしまおうということになった。それが1985年の会社設立のきっかけだった」

「利益を出して、それを世界ラリー選手権のラリー活動に充てようという野心があった。一歩一歩成長していき、そして1993年末にトヨタ・チーム・ヨーロッパに参加する機会を得たのです」

「1993年から1996年までは、テインでチームをつくってラリー活動をしていていました。テイン・スポーツと呼んでいました。世界ラリー選手権のアジア-パシフィック選手権ラウンドに出場し、1994年と1995年にはトヨタ・チーム・ヨーロッパから参戦する機会を得ました。チームには1998年までトヨタがサポートしてくれていました」

―1995年にサファリ・ラリーで優勝する前に、完全なルートを8回走ったというのは本当ですか?

「そうだよ。1995年に、トヨタからケニアに行って5ヵ月間滞在してくれと言われた。1月の初めに現地に飛んで、たくさんのテストをした。当時は、いわゆる『ハイスピード・テスト』を行っていた。ケニアの道路で、グループAカー、つまり現物のラリーカーですべてをレッキすることができたのです!」

「私はレッキを8回行ないました。つまり、24,000km近くをラリーのスピードで走ったことになる。でも、ケニアのラリースピードは、スプリントラリーよりも少し遅い。そうでなければクルマが耐えられないからね」

―当時のサファリ・ラリーは、選手権の他のラウンドとどのように違っていたのでしょうか?

「サファリは、モンテカルロ、GB、サンレモなどの他のラリーとは全く違っていました。道路が閉鎖されているわけではないので、チームのヘリコプターが空を飛んで先を教えてくれる必要があった。地元のバスが来たとか、キリンが来たとか、そういう時はスピードを落とさなければなりませんでした」

「例えば、6速のフラットアウトでクレストを越えていたのに、突然、反対側からクルマが来ることを想像してください。だからこそ、空からの助けが必要だったのです」

―イベント中、ミスはしましたか?

「3日目に、タイヤ選択の問題からミスをしてしまった。ミシュランの新しいタイプのアンチパンクチャー・タイヤを使っていたが、そのタイヤはグリップが少し弱かった。マシンがスライドしてバンクにヒットし、横転した。しかし、とてもゆっくりとした転がり方だった。ボディの軽い傷だけで済んだので、幸運でした」

「私とアーネ(・ハーツ、コドライバー)が外に出ると、突然、3人か4人のマサイ族の人たちがやってきた。皆でマシンを道路に戻してくれたので、再び走り出すことができました」

―それは幸運でしたね!優勝したときはホッとしましたか?

「そうだね!横転の直後は、私のラリーは終わったと思った。でも路上に戻ったときには、『ああ、ラッキーだ、これなら勝てる』と思いました。サービスですべてを修理し、完璧なドライビングが可能になった」

「僕と篠塚建次郎さんの間には20分ほどの差があった。20分ならまだ追いつかれる可能性があるが、彼もダメージを受けて遅れてしまった。そのあとは、リラックスしてクルージングした」

―レストアされたセリカはとても美しいですね。 あなたが優勝したときのマシンとまったく同じものですか?

「そうだ。私たちが優勝した後、トヨタ自動車がこのマシンを思い出深いものとし、日本に持ち込んだ。最終的に、私が自分でリビルドすることに決めた。これから日本に戻ってくる」

―最近はグループAのセリカが少なくなってきました。部品の調達は大変でしたか?

「レストアはドイツで行なったが、ドイツには元トヨタ・チーム・ヨーロッパの人たちがたくさんいる。彼らは、レストアをたくさん行なっている。世界中に古いセリカのファンがたくさんいるからね。リビルトされたパーツもあれば、まだ市場で買えるパーツもあるし、私たちが自分たちで作ったパーツもある」

―サファリ・ラリーが世界ラリー選手権に戻ってきたことについて、どう感じていますか?

「非常にユニークで、とても挑戦の多いイベントだ。ラリーがケニアに戻ってくることは、とても嬉しい。ケニアは私の第二の故郷のひとつであり、良い思い出がたくさんある」

―今年もトヨタ車を駆る日本のスターがいます。勝田貴元選手の躍進についてどう感じていますか?

「彼とは以前、何度か話をしたことがある。というのも、彼はF3から来たので、どこでも道を記憶できていると思っていて、よくクラッシュしていました。しかし、今はラリーで最も重要なのは経験だと理解している。ラリーはサーキットレースではないので、すべての場所を覚えることは簡単ではない。ペースノートは重要だ。すべてのラリーが違う特徴を持っているので、トップレベルになるためには、最低でも3-4年はWRCでの経験が必要だ」

「貴元は良い仕事をしている。彼に必要なのは、速すぎるドライブをすることではなく、フィニッシュをしてさらに多くの経験を積むことだ。そうすると、トップリザルトを得られるようになるだろう」